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2006/09/04

ゲド戦記

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 日劇PLEXにて鑑賞。巷で酷評されている作品である。最初に断っておくが、世間が酷評する作品に対しては、ついつい擁護にまわってしまいたくなるという悪癖が、オレにはある。故に、先に結論を云っておくと、そんなに酷評するような作品でもあるまいと考える。むしろ稀代の傑作コメディとして長く歴史に刻まれるのではないか。いや、ダンナ、ここだけの話ですが、大爆笑できますぜ?

 まず背景説明をしておこう。本作は、アーシュラ・K・ル=グウィンによるファンタジー「ゲド戦記」が「原作」にクレジットされており、なおかつ宮崎駿による絵物語「シュナの旅」が「原案」にクレジットされている。このあたりの事情が複雑そうだが、制作者サイドの思惑など鑑賞側としては知ったこっちゃいないので割愛する。ただ、頭に入れておいてほしいのは、原作・原案をともに事前に読破している立場としては、とても大笑いできる作品であるという点だ。
 「原作」の「ゲド戦記」は、「指輪物語」(ロード・オブ・ザ・リング)、「ナルニア国物語」と並ぶファンタジーの傑作と云われている。オレはもともとSFが好きなのであってヒロイック・ファンタジーは敬遠気味なのだが、それでもこれだけ高名な作品になると読んではいる。まぁ、あまり好みの作品でないのは事実だ。世間的にはこれを傑作と考える人々が確実に存在していて、そうした方々にとってはほとんど神格化したような対象となっているらしいから、あまり悪口を云うと怒られそうだが、まぁ見解や意見が異なるのは仕方あるまい? 万人が認める作品など存在するわけがないのだ。
 さて原作者ル=グウィンだが、1929年生まれ、当年とって77歳のおばぁちゃん作家である。「辺境の惑星」、「ロカノンの世界」、「闇の左手」、「幻影の都市」「所有せざる人々」、「天のろくろ」、「世界の合言葉は森」などなど、SF作品で受賞歴が多いが、やはり最もメジャーなのは「ゲド戦記」だろう。全5作プラス外伝からなっており、第1作「影との戦い」の刊行が1968年だから、一応の最終第4作「帰還」(1990年刊行)まで30年近い年月をかけたことになる。第5作「アースシーの風」(2001年刊行)は主人公が交代しており、「ゲド戦記外伝」(2001年刊行)は短編集+作者本人による世界観の解説といった趣きの作品であるため、純粋に「ゲド戦記」となると第4作までのカウントがまぁ一般的だ。現在から振り返ってみれば外伝から読んだほうが理解が進みやすいのではないか。
 実は「ゲド戦記」に対するアプローチは、過去、宮崎駿がすでに行っている。ル=グウィン本人にアニメーション化の意向を伝えたのだが、このときすでに「ゲド戦記」の映像化権がアメリカのSCI-FIチャンネルに委託されており、叶わなかった。ところがそのSCI-FIチャンネルが作った「ゲド戦記」TVシリーズ(実写、有名どこではダニー・グローバーが出演している)の出来に対し、ル=グウィン自身が文句をつけ、現在ではほぼお蔵入りになっている。その後、委託されていた映像化権を取り戻したル=グウィンは、かつてアプローチを受けた宮崎駿に対し、逆に映像化してほしい旨を打診するのだが、宮崎駿自身は、すでに過去の作品において「ゲド戦記」の影響を受けた箇所が複数あることから、この時点になってから「ゲド戦記」を自ら映像化することは、まるで自分の過去の作品の焼き増しをする行為に等しいと判断し、拒絶した。とはいえ、契約上はジブリという企業体がル=グウィンから委託された恰好になっていたため、社内で監督さがしが始まり、白羽の矢が立ったのが宮崎駿の息子、宮崎吾朗だった――というのが制作開始までの経緯だ。
 ただし宮崎吾朗(脚本は丹羽圭子との共同)、アニメーション制作は素人と云ってよい。とはいえスタッフはジブリのベテランが揃っている(数人は辞退したらしい)から、技術的には問題ない。それでも本人、アプローチにはかなり悩んだ模様で、時間がかかっている。結果、本人には誠に申し訳ないが、最もよくないアプローチ手法を選択してしまったと云える。

 原作のゲド戦記は、「太古の言葉」が魔法の力を発揮する多島世界(アーキペラゴ)である「アースシー」を舞台とした魔法使いの物語である。大陸はなく、海と島からだけなっている世界だ。全5作(+外伝)のうち、宮崎吾朗がベースに選んだのは第3作「さいはての島へ」。魔法使いのなかでも最高の位である「大賢人」になったハイタカが、王子アレンとともに世界の均衡を取り戻そうとする話だ。あくまで主人公はハイタカのはずだが、映画化にあたって主力はむしろアレンに移されている。第4作「帰還」でのハイタカは、もはや壮年期にさしかかっている。全ての力を失い、大賢人を降りたハイタカが、故郷の島へ帰還し、テナーとともに暮らそうとするのだが、地場の魔法使いがちょっかいを出してくる話。ここでテナーが助けるのが、今回の映画化のカギになってくるテルーという少女だ。第5作「アースシーの風」になると、ハイタカは引退した身で、主人公はアレン、テナー、テルーの世代に移っている。だが実はこの作品の重要なモチーフを、今回の映画化ではラストに据えている。本来の主人公であるハイタカは、第1作「影との戦い」の際まだ少年~青年で、魔法学園で魔法を学んでいる。禁断の術を使ったがために自らの「影」を呼び出してしまい、脅かされる。このあたりが今回の映画化に(別の形で)活かされている。第2作「こわれた腕環」の主人公は、今回の作品でゲドの昔馴染みとして登場するテナーだ。神殿の巫女で、なおかつ囚われの身。全く別の目的で現れたゲドに助けられる。このへんの件りは、科白のなかで語られている。
 つまり宮崎吾朗は、「原作」のゲド戦記から、第3作をベースに据え、話としては第4作と第5作の一部を加え、さらにモチーフとして第1作を加えている。ただし、それらは全て物語の上での話であって、舞台設定は、ほぼ「原作」の「ゲド戦記」を無視してかかっている。

 舞台設定の基本は「原案」の「シュナの旅」のほうだ。宮崎駿が1983年に発表した絵物語(漫画ではなく、変な云い方だが〝ちゃんとした絵コンテ〟だと思ってくれれば間違いない)で、絵のベースは完全にこちらを採用している。話の上でも、いくつかのシーンは明らかにこの話から引用してある。
 さらに演出(というかシーンの配置)の参考に、かつて宮崎駿が東映時代に演出した「太陽の王子ホルスの大冒険」を持ってきた。例えば冒頭のほうの狼との戦闘シーンがそうだ。
 つまり宮崎吾朗は、素人であるが故に、父親の演出技法をそのままパクり、バラバラのピースにして散らばらせることで、ル=グウィンの原作をつなげるという手法を選択したのだ。非常に理系的な感覚と云える。やり方によっては成功したかもしれないが…。

 勘の良い人はここまでで分かろうが、つまり本作は「ゲド戦記」ではない、何か別のものなのだ。したがって、世間的な酷評の3割程度を占めている(当社比)「あまりにも原作と違いすぎる」という批判は、的外れ極まりないと云える。最初から原作から逸脱することをめざしているのだから当然のことであって、そこへ「原作と違う」と批判したところで無意味だ。
 この点、やや誤解があるようなので指摘しておくが、巷では原作者であるル=グウィンが本作を観て「これは私の作品ではない」と云ったとされている。何度も云うが、原作と異なる点は何らマイナス要素にならないのだが、このル=グウィンの発言が「部分的にのみ」流布している点が我慢ならないため云っておく。確かに宮崎吾朗が完成した作品を持ってアメリカに渡り、ル=グウィン本人に見せたのは事実だ。その際、感想を訊かれたル=グウィンが
「It is not my book.」
 と答えたのも事実ではあるが、その後に続けてこうも云っている。
「It is your film.」
「It is a good film.」
 この点、宮崎吾朗、ル=グウィン双方のブログに同じことが書かれているので、ほぼ間違いあるまい。

 巷の批判の残り7割は、「脚本の出来がなっていない」あるいは「プロットが破綻している」という評価だ。これは確かに当たらずとも遠からずではあるが、しかし、酷評するほどのものか。そこまで口汚く罵るほどの出来とも思えない。こう云っては何だが、もっとひどい出来の作品は星の数ほどあるし、それらに比べれば、まだしも良心的な作りであると云える。何せ素人がやったことだ。大目にみてやってはくれまいか。オレはむしろ、今後のアプローチの仕方に期待を持たせる、成長株の実験作という見方を採用したい。もちろん、これだけ批判を受けているのだから、第2作というわけにはいくまいが。その点は非常に残念でならない。
 巷の批判が高まった理由は、恐らくジブリ、宮崎駿の息子というブランドに対する信頼から、最初から高い水準の作品を期待してしまった結果と思われる。もちろん商業作品だから、期待するのは当たり前で、それに応えるにも商業作品の義務ではあるのだが、オレはどうもこういう出来の悪い(でも可能性を感じさせる)作品に出会うと、つい擁護してしまいたくなる。
 「私はブランドに左右されない」という人も、まっさらな目で見てやはり出来が悪いという。そこは確かに批判の対象になってしかるべきなのだが、その原因は、最初のアプローチのマズさにある。最初の背景説明で述べたように、ゲド戦記本来の世界観を説明しないまま話を進めるために(何度も云うが舞台設定はあくまで『シュナの旅』なのに、世界観はゲド戦記だから、こういう混乱が起こる)、あたかも話の展開が悪いかのように見えてしまうのではないか。原作・原案とも世界観を熟知している側としては、むしろ爆笑してしまいたくなった。固有名詞をあげるなら、冒頭の「風の司」や「真の名」などの設定材料を「何だか分からないもの」や「魔法」として放置し、なおかつその上にテーマや物語をのっけてしまうものだから、設定に馴染みのない人が違和感を感じるのは当たり前である。タイトルである「ゲド」すら一度しか発音されない。本作ほぼ唯一の良い点として「歌」があげられることが多いが、オレはむしろ邪魔に感じた。あんな長いシーンに時間をかけるくらいなら、設定の説明に時間を費やしたほうが親切というものだ。
 さらにテーマが説教くさい上、それをほぼ全て科白で説明させてしまっている。したがって科白が膨大になる。これではいただけない。しかも、それ故、話の展開上テンポを崩してしまう。もともと原作のゲド戦記は、さほどアクションシーンの多い作品ではない。ただ話の展開のさせ方がうまいので、緩急がついているように見えるだけの話だ。前述したようにいったんバラしたピースを違う舞台設定でつないでいるものだから、そのまま素直につなげば緩急が失われるのは当たり前だ。

 ではどのようなアプローチが正しかったのだろうか。オレはごく素直に原作のゲド戦記を1作ずつ映画化していく(ちょうど指輪物語やナルニア国物語がやったのと同じアプローチだ)か、あるいは舞台設定やキャラクター設定はそのままに、全くオリジナルの物語を編んだほうが得策だったのではないかと考える。もう少し云わせていただくと、そもそもアニメーションという手法に対して、オレは最初から疑問を抱いていた。それこそピーター・ジャクソンあたりに映像化させればいいのだ。宮崎駿が影響を受けるのは勝手だが、ゲド戦記の話と宮崎駿の作風とは、あまりにもかけ離れたものだと考える。まぁそこまで云ってしまうと元も子もないが。

 何度も云うが、オレはこういう可能性の感じられる実験作には好感をおぼえる。例えば最後のほうで、ガラガラと崩れる城の建物の上で戦闘シーンがあるのだが、あれだけ複雑そうな建物の構造をうまく説明しつつ戦闘を展開させていた。あの力量は大したものだ。恐らく(建物の)設計図を書いたのはないかとすら思える。父親がカリオストロ城の構造を説明することに失敗していることを思えば、希有な才能ではないか。

 いろいろ悩んだあげく、点数は完全に半分とした。

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コメント

こんにちは。MOです。

本文をみただけでも貴兄の映画だけにとらわれない各方面への造詣の深さに感嘆させられます。

私もゲド戦記をみたのですが、他の人と同様に非常につまらなかった、というのが実感です。

まず、貴兄ほど本作のバックグラウンドや関連を知ることなく、白紙の状態でみた故ストーリーのつながりがあまりに稚拙(なように見えて)退屈してしまったのです。
今こうやって、貴兄の文を読んでこれこれこういうものがあってこういう話があって恒、という風に言われれば、「は~、そうなんだ~」という風にも捉えられますが、原作を知らないとよくわからない、というのは映画としては辛いかなあ。まあ、逆の言い方としては原作のある映画を見るなら原作くらいしっとけ、というのもありかもしれませんが。

過日私は『Limit Of Love海猿』をみました。こちらもテレビシリーズや前作があったと思いますが、私は全部見ていません。でも時間があったのでみました。結果、かなり楽しめました。細かいところや何でこんな時にこんなことするんだ?とかいうのはありましたが、総じて面白くはらはらするスペクタクルになっていました。
そういう作りにしてくれないと、わざわざ全国展開して委員会も作ってメディアミックスで大々的に売る映画としてはいかんのではないかなあ?と。

あと、貴兄が仰っている『はこういう可能性の感じられる実験作には好感をおぼえる。』というところは、

「ああ…なんて心が広い」

と感心させられました。

自分の場合、

「未経験の人がデビューで実験的に監督やるなら単館上映で小さいものから初めてほしい!」と思ってしまいました。

私はスタジオジブリのアニメにも造形が浅く、あまり見ていないので偉そうなことはいえないのですが、壮大な構図が多い割には絵が汚いなあ…とも思いました。なんか水彩絵の具でぺたぺたしたような山とか草原は狙いなのかなあ?

そういえば、冒頭でアランが○○を○○しちゃったのがなぜなのか、とてもショッキングな展開なのに映画の中では全く理由づけられませんでしたね。何であんなことしちゃったの?

ということで、頭の中にははてなが渦巻いて、壮大な構図の割には内容はちまちましていて、最後とってつけたような結果があって、という映画と思ってしまいました。

投稿: MO | 2006/09/05 11:38

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