« いない八手三郎 | トップページ | 生存報告 »

2007/01/28

第51話 命日

 本日は石ノ森章太郎の命日である。

 そういう日に、本人が亡くなった後のことを書くのもどうかと思うが、まぁ仕方ない。「仮面ライダークウガ」について、である。

 仮面ライダーシリーズは、BLACK RXを最後にTVシリーズとしての命をいったん終える。その後、オリジナルビデオなどはあったものの、TVシリーズの誕生はクウガまで待たなければならなかった。クウガに始まるTVシリーズを総称して「平成ライダーシリーズ」などと称されることもあるが、これは決して正確な表現ではない。何故ならRXの後半で時代はすでに平成に入っていたからだ。それよりもクウガ以降の仮面ライダーTVシリーズは、原作者である石ノ森章太郎の生前に作られた作品か死後に作られた作品であるかによって区分するほうが正しい、というか特徴的である。あえて云えば、原作者の意図を明確に反映しているか否かの違いと云えよう。

 いや、何も原作者の意向を明確に反映しているから良い、逆が悪い、と云っているのではない。そうしたこととは別にして、クウガ以降の作品のあくまで出来に対して、多少なりとも異論というか腹立たしい思いをしているがために、ちょっとコメントしたくなった、という話だ。
 というのもクウガ以降の作品は、困ったことにクウガを頂点として年々その質を落とし続けている――という印象をぬぐえないでいるからだ。実は「響鬼」でその印象をぬぐえる可能性が浮上したものの、30話以降のていたらくは各所でコメントされている通りである。
 「クウガを頂点にして」とは云ったものの、それはあくまで比較しての話であって、1つの作品として観たとき、オレは決してクウガをベストだとは考えていない。確かに「作中で『仮面ライダー』という呼称が登場しない」、「かつての仮面ライダーシリーズと同一時間軸上で物語を展開しない=複数のライダーが存在しない唯一の作品」、「改造人間ではない」、「『悪の組織』が存在しない、故に戦闘員も出てこない」、「警察組織との共闘」、「敵役が独自の言語と文化を持つ」、「技や武器を使用する際にその呼称を叫ばない」などなど、確かに前後にはありえなかった設定や展開が次々に登場した、そのエポックメイキングさには脱帽させられるものの、それと作品の出来とは別の話である。
 だからといって、クウガが愚作だと云う気も、これまたない。何度でも云うが、その後の作品は年々質を落とし続けており、故にクウガが頂点だとは考えても、ベストだとは考えないオレなどにとっては、望む方向と正反対、つまり〝下〟に向かっていることに、憤りにも似たものを感じてならない。

 故に、ベストではないが頂点であり続けるクウガに対しては、ある種の特別な感情があると云っていい。それ故に、いわゆる「平成ライダー」シリーズのうち唯一映画化されていないという「差別的」な扱いを哀しいと思い続けているし、番組終了後の有志による署名活動、残存キャスト・スタッフたちの映画化への努力にも惜しみない拍手を送り続けていた。

 だが、残念ながら現在の特撮ドラマには多額の制作費がかかり、故に回収が見込めない作品に投資するような莫迦はいない。
 オレはそういう莫迦でありたいのだが、1人ではどうにもなるものでもない。
 そうしたなか、映画化に向かって静かに努力を続けていた東映の異端児プロデューサー・高寺正紀が昨年6月にアップした文章は、非常に残念なことながら、ある種の敗北宣言とも受け取れよう。

http://www.toei.co.jp/tv/programs/kuuga/message.html

|

« いない八手三郎 | トップページ | 生存報告 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/162541/13197539

この記事へのトラックバック一覧です: 第51話 命日:

« いない八手三郎 | トップページ | 生存報告 »